多読が必要なわけ:やさしい本なんか読まなくてもいい、なんて、ただの勘違いだし
前回、単語と文法を覚えるだけでは、「暗号解読」式の読み方しかできないし、「暗号解読」式は「すらすら」読めるというのとは別物なので、やさしい本をたくさん、訳さずに読もう、って話をした。そこのところをもう少し。
「暗号解読」式というのは、単語や文法の照合作業をして、日本語に置き換えて理解する読み方。そんなの当たり前の読み方だろうと思うかもしれない。大学のドイツ文学科みたいなところで教えられる読み方だって、そういう暗号解読だ。でも、それを大学の4年間まじめに続けても、本がすらすら読めるようになったりはしない。「暗号解読」がそれなりに得意だった経験者は語る。
なぜか。
「暗号解読」は、単語の意味や文法をいちいち意識化して、日本語に変換するという作業だが、「すらすら」読めるというのは、その逆だからだ。いちいち意識化して考えなくても、頭が自動処理してくれる状態。
「暗号解読」式は「すらすら読める」ようになるのに役立つどころか、障害になると考えていい。
たとえば、語順。「暗号解読」式は日本語に訳そうとするので、日本語の順番にドイツ語の単語をたどって、前後に行ったり来たりする。行ったり来たりウロウロする時点で、もう「すらすら」ではないというのは、おわかりだろうか。
そもそも本来身につけるべきなのはドイツ語の語順(しゃべるときはドイツ語の語順で言わなければならないんだから)。だから読む時だって、ドイツ語の語順のまま読んで理解できなければおかしい。日本語の語順で単語をたどっていくというのは、覚えるべきドイツ語の語順を見ないようにしているのと同じ。それでドイツ語の語順を身につけられる?
「身につける」というのは、意識しなくなることだ。たとえば楽器やスポーツ。楽器もスポーツも本当に楽しくなってくるのは、意識しなくても体が自然に動くようになってからだ。そうなるまでには、ヘタクソでも何度も自分で体を動かしてやってみるしかない。それも、単純な基本的な動作から始めて、繰り返し何度もやってみるはず。
外国語も同じ。繰り返し何度でも、同じ単語、同じフレーズ、同じ文法、同じ語順に出会うべき。それで、はじめは「なんだっけ」と考えなければならなかったものが、繰り返されるうちに、反応速度というか処理速度が少しずつ上がっていって、そのうち頭が勝手に自動処理してくれるようになる。
そのためには、たくさん読むことが必要だというのは言うまでもないだろうし、やさしい本から始めるべきたというのもわかるはずだ。たとえば、辞書を引いて解読しないと理解できない、むずかしい本を1日30分で500語読む場合と、辞書なしでだいたいわかるやさしい本を3000語読む場合。その半年後、1年後を想像してみたらいい。基本的な表現を何度も目にし、身につけているのはどっち? 辞書を一度引けば覚えられるというのなら、1日30分500語でもいいのかもしれないが、そんなことはできないから、みんな苦労している。
もうひとつは訳さないようにすること。訳そうとすると、「暗号解読」式になってしまう。それに、いちいち訳文を考えながら読むと、それだけ頭を使うから疲れるし、時間もかかる。その結果、たくさん読めなくなる。実は効率がよくない。
というわけで、その本は簡単だからとか、知っている単語ばかりだからとか、そんな理由でやさしい本は読まなくてもいいなんて思うのは、ただの勘違い。それは「暗号解読」ができるってだけで、「すらすら」読めているわけではない。
たとえば、3歳向けの読み聞かせの朗読CDを聞いてみると、朗読スピードは1分間に120語くらいだったりする。3歳児でもそのくらいのスピードでドイツ語を処理し、理解できるということだ。「暗号解読」式の読み方しかやったことがない人は、知っている単語しか出てこない文章を読むときでも、そんなスピードではまず理解できない。経験者は語る。(せいぜいその半分くらいのスピード。それで「やさしい本は読まなくていい」とか、ホント勘違いもはなはだしい。そもそも1分に120語というのは、読書スピードとしても速くもなんともない。)
次回に続く
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