多読が必要なわけ:絵本なんか読まなくていい、とか、ただ愚かなだけだし
わけのわからない文字列=暗号(ドイツ語)を、なんらかの規則に従って、意味の通る文字列(日本語)に変換する、というのが「暗号解読」式の発想。「暗号解読」式をさんざんだしに使ってきたが、今回も。
「暗号読解」式って、そもそも読書なのか?
日本語の本を読むときのことを考えてみよう。もちろん目は文字を追っている。でも、別に文字の解読が目的ではない。たとえば小説なら、物語が読みたいわけだ。登場人物がある場所にいて、何かをしている。で、読者は文字を読みながら、それを見たり、聞いたりしている。そこにはいろんな人や物があり、さまざまな色や形があり、触った感触があり、あるいは臭いがあり・・・などなど。頭の中でヴァーチャルに五感を使って、それらを体験している。あたかもそこに一つの世界があるかのように。そうやって世界を経験していって、笑ったり泣いたりもする。
読書はそういうもののはずなのに、外国語の本になると、「暗号解読」こそが読むことだ、みたいなことになってしまう。アルファベットの羅列を日本語にどう置き換えるか、そんなことばかりで、五感を使って体験する本来の読書はどこかへ行ってしまう。洋書でふつうに読書ができたらいいなあ、なんて夢見ているのに、だ。
で、多読のとんでもないところは、そんなあたり前の読書ができるようになりたいなら、「暗号解読」なんかせず、はじめからあたり前の読書をすればいいじゃないか、というところ。
むずかしい本が読めないなら、やさしい、読んで楽しめる本を読めばいいだけのこと。自分が読める本が見つかるまで、どんどんやさしくしていけばいい。たぶん一番いいのは絵を見れば話がわかる絵本。
絵は視覚情報だが、視覚を刺激するだけではない。絵を見て、寒そうとか暑そうとか、静かそうとかうるさそうとか、視覚以外の感覚だって刺激される。さっき言ったように、読書はヴァーチャルに五感を使うことなんだから、絵はその大きな助けになる。
そういうふうに絵本を山ほど読んで、絵のない本に移行していけば、自然にあたり前の読書の仕方が身につくのでは? それは、日本語に訳すために単語や文法を詰め込む、なんてやり方よりも、ずっと幸福なやり方のはず。言葉はもともと、つねに具体的な物、その形や色、音などなどと結びついていて、五感とともにあるはずのもの。それをどう日本語に変換するかなんて、ただの「暗号解読」、頭だけの問題にしてしまうから、おかしなことになる。
というか、直接ヴァーチャルに五感を使う読み方こそが、「すらすら」読めるってことじゃないのか? 「暗号解読」式の変換作業なしで読めているんだから。
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